happy go lucky

自分史というものを書いてみたくて。

弟たちが産まれたとき

弟たちが産まれたときの記憶。

 

4歳になる直前に弟が産まれた。

母の大きなおなかをさすった記憶、「ユータくん」という名前で呼んでいた記憶がある。実際は違う名前を名付けられたのだけども。

 

お世話をしてあげる写真も残っているし、弟が小学校に入るころには「この子私の弟なの」とクラスメイトに匂わせたり、先生の前でわざと手をつないでお姉さんぷりを見せつけたりした。

しかし、大人になって残る”感情”といえば、嫉妬心とか寂しさとかそんなかんじ。

 

一人っ子時代の、みんなが私の為に愛情とお金を注いでくれたことが忘れられなくて。

 

年長の時にはさらに弟が産まれた。

その時の市立病院の景色も覚えている。

二人が幼児のとき、ませた低学年女子だった私は幼児の遊び中心の生活が嫌だった。

夕方の再放送アニメが見たいのに、おかあさんといっしょ

母とオシャレしてお買い物に行きたいのに、動物園や公園。

一人のときはレストランにもたくさん連れて行ってもらえたのに、弟たちが産まれてからはせいぜいラーメン屋。

 

写真の服装を見ても、ひとりっ子時代はブランド品が多いが、低学年時代は”その辺で買った服”。

 

誰も悪くないけれど。

その後私は子どもを一人だけ産んだ。

この子にきょうだいを作ってあげたい、と思ったことは一度もない。

一番古い記憶

断片的な記憶。

 

3歳。

習っていたリトミック教室で、スカーフを頭に巻いて男の子と写真を撮った。

あのときのスカーフのシルクの触感。

ドは赤、レは黄色、ミは緑、ファはオレンジ、ソは青、ラはチャイロ、シはピンク。

セロファンの切れ端を楽譜仕立てのワークブックに貼った。

 

4歳のときに、何か叱られて家の外に立たされた。

私はもうかわいがられるだけの赤ちゃんじゃないんだなあ。

 

5歳、幼稚園の年長組。

入学を前に男の子たちが「苗字+君」でお互いを呼ぶのを見て、何となくマネしてみたら「えっ!〇〇君の事好きなん?」と言われて「えっ」と思った。

 

幼稚園が力を入れていたマーチングで、ドラムメジャーをすることになった。

あとで母に聞くと「プログラム全体を把握できる子、曲を全部覚えられる子はアンタだって話になったらしいよ」と。

3月生まれでそれはかなり早熟タイプだったのかもしれない。

いやそもそもこの起用理由が本当かどうかは分からないけれど、一人だけ赤くてかっこいい服を着て羽のついた帽子をかぶった思い出は、大人になっても自分の自信につながっている。

 

しかし記憶にあるのは、マーチングフェスティバルの開会式で手持無沙汰だったので棒のフサフサをいじったりモジモジしていたら、そのあとこっぴどく叱られたこと。

大きい会場でどこまで進んでいいのかわからなくなったところで、カメラマンさんがカメラを向けたまま「ココまでだよ」とジェスチャーしてくれたこと。

幼稚園から2人一組で近くの公園へ練習しに行った時の、あの道や公園から見る景色。

地方都市繁華街の雑居ビルの裏側の、表側と違って何も装飾されていない油と酒にまみれた土のような壁壁壁、そして青空。

そんなもんだ。

 

幼稚園には3年通った。その園で当時3年保育で入園したのは5,6人ほど。

4月5月生まれの子の中に3月生まれの私がちょこんと。

母としては、商売をしているから園に預けたいけど、元幼稚園教諭としては保育園じゃなくて幼稚園に入れたかったこと、もう一つの理由としては二人目になかなか恵まれなくて病院に通ったのだと大人になってから知った。

 

結局その3年間で弟が2人生まれた。

産まれた日の話。

生まれたのは鹿児島県出水市。母の実家がある町。

1981年の春は南国鹿児島になかなかやってこなくて、3月に入っても雪がちらつくほど。

中旬になって、難産の末に私が産まれ、気持ちがひと段落した母が窓の外を見ると冬はすっかり終わり、春がきていたそう。

 

私の名付けは、案が出すぎてこれまた難産。

出生届を出すギリギリになって、祖母の”鶴の一声”で決まったそう。

 

名前はとても気に入っている。日本一この名前が似合う女だと、私は思っている。

横浜が生んだ天才少女が眩しくて仕方がない大阪の女

2021年の年明けの瞬間、どうして過ごしてましたか?

我が家はオンライン配信されたサザンオールスターズの年越しライブを見てました。

 

「紅白って演歌歌手も多いしツマンナイよね。」

「ほら、本当にイケてる歌手って、紅白には出ないんだよ・・・」

 

ついこないだまで「大晦日だよドラえもんスペシャル」を見て寝てた年齢だったのに、そんな会話がクラス内でも聞こえてくるようになるお年頃に、わたしはサザンにはまりました。

世間では涙のキッスとエロティカセブンがヒットチャートを賑わせていた時代。

地方都市の片隅で少女は「ステレオ太陽族」や「熱い胸騒ぎ」をTSUTAYAで借りてきてカセットにダビングしては繰り返し聴いていました。

 

テレビで放送されていたサザンの年越しライブは眠い目をこすりながらも必ず見てました。

親と同年代の彼らに、親とは違う大人の色気のようなものも感じながら。

上半身裸で踊って下ネタを繰り出す桑田佳祐を父親は「真面目にやればいい曲も書けるのにこんなにふざけやがって」なんて嫌そうな顔をしてたっけ。

(そもそもお父さんのカーステレオでサザンを知ったのに・・・とは言えなかった)

 

それから間もなく少女は「洋楽派」になり、中学高校大学と世の中を知るにつれていろいろなジャンルの音楽を聴くようになり、すっかりサザンのことは「幼い頃に聴いてたJ-popの思い出」として記憶の引き出しにしまわれていたように思います。

 

あれから30年近くが経ち、久しぶりにちゃんと見たサザン。

夜風のオンザビーチやいとしのフィートなど、昭和サザンが盛りだくさんで嬉しかったな。

 

極めつけが、奥様の原由子のことを

「横浜が生んだ天才少女」

といったメンバー紹介!

これにはしびれたなあ。

 

わたしが好きな初期のサザンはリトルフィートの影響を色濃く受けているといわれてるのですが、特に原坊が叩く高音オクターブは確かにリトルフィートっぽくて、でもそれだけではなくて音色が横浜や茅ヶ崎の空気を纏ってて本当に素敵なんです。

 

職場で下ネタを連発する同僚夫にツッコミを入れるわけでもなく嫌な顔をするわけでもなく、横でニコニコしてるだけの原さん。

なんとなく昔から不思議に思ってはいたけれど、大人になるとこれがどれだけすごいことかを痛感します。

「もしやりすぎちゃったときは、一緒に怒られましょうね」

というスタンスだということを知り、夫婦で自営業をしているわたしは年が明けても何かとそのことを思い出しては反省が止まりません。

暇なお正月はジンクスが気になる

忌まわしき2020年がやっと終わり、年が明けた。

この街に住んで20年以上が経つけれど、お正月をココで過ごすのは初めて。

日本の端っこの街まではるばる、大阪弁を話す息子を連れては帰れない。

 

さて、今日は1月3日。

暇を持て余した夫と息子はポケモンの新春映画を見に行き、加湿器の音がポコポコというのが聞こえるほど静かな我が家でこのブログをはじめました。

 

先ほどの話。

タブレットで動画を見て笑う息子の声に邪魔されない今のうちに、とピアノに向かうことに。

 

最近練習してたのはベートーヴェンピアノソナタ「悲愴」

20年のブランクを経てピアノを再開したばかりなので指の動きはまだまだだけど、お子ちゃまだったあの時より「音の深み」のようなものは出せてるようにに思う。

しかもコロナによる我が家の経済危機で鬱々としていたわたしに「悲愴」はぴったりすぎて、何回弾きながらツーと涙がこぼれたことか。

 

・・・でもやめとこ。

だって、新春から「悲愴」って、ねえ。

コロナで辛いのは去年まで!今年からは気持ちだけでも(カラ)元気で行くんだ!

と、昔習ったクレメンティのアップテンポのソナタを弾くことに。

 

しかし今度はすぐに鍵盤に爪が当たるのに気づく。

7日までは爪、切っちゃいけないんだっけ。

刀で爪を切ってた時代の名残とはいえ、なんだか気になって爪切りもピアノも諦めてしまった。

 

気を取り直してパソコンに向かうも、結局キーボードの音だけじゃなくて爪のカチカチが気になる。

2021年がいい年になる為なら多少のことはガマンガマン。

ジンクスに振り回されるお正月は今日でおしまい、明日からは日常がはじまる。

 

p.s.

ピアニストが「悲愴」を演奏する動画を見てた時に読んだ、とある練習者のコメントが心に残っている。

「大好きだったおばあちゃんが亡くなってとっても悲しいんだけど

おばあちゃんに誇れる人生を送れるように頑張ろうと

前を向き始めるような気持ちで弾きたい」